何故、熱情のV楽章なのか?                                2008/09/04                                 ホームへ戻る

どういう思い入れを持っているのか?

何故弾けるようになったのか?

 

最近、よくみなさんから聞かれます。

 

 これまでに書いているように、私はベートーヴェンの熱情ソナタのV楽章を(これだけを)、

一所懸命に練習しています。以前に習っていた先生に、その当時の実力でそんな曲を弾くなど

冒涜だと言われ先生を替えてまで弾こうとしました。(冒涜がベートーヴェンに対するものか、

ピアノ教師に対するものか、ピアノ学習者に対するものかは残念ながら、もう聞くことは出来ません。)

 

 今、私の演奏を、聞く人が聞けば、「なってない、あんなもの熱情じゃない」といわれるのは覚悟の上で、

色々な所でご披露しています。またネット上に載せることによって世界中の人に聞かれるわけです。

「少なくとも間違えずに,止まらずに弾いてほしい」という声も聞こえてきそうです。

 下手な演奏の犠牲になった方には、本当にお気の毒と思いますが、これも私が熱情をもっと立派に

弾くための過程として勝手にお許し願っています。

 

 さて、この曲への思い入れは、もう40年以上前になります。

 

17歳のある日、月光ソナタを聴こうと思い、月光・悲愴・熱情の入ったバックハウスのベートーヴェン

三大ソナタ集というLPを買ってきました。当時「80歳のおじいちゃんだけど凄い」とレコード店の

店員さんから聞いていました。

 

(余談ですが、80歳は当時は想像も出来ないおじいちゃんでした。今は手を伸ばせば届くところにいます。)

 

 最初は、「月光」ばかり聞いていて、熱情はたまにしか聞きませんでした。当時の自分は、なにか、

あの第一楽章の暗さに耐えられない精神状態でしたから・・・。(受験や片思いでいっちょ前に悩んでいました。)

----習い始めて知ったことですが、熱情の「Fmoll」は、最も暗い調性だそうです。----

 

そして、ロマン・ロランの書いた「ジャン・クリストフ(ベートーヴェンを念頭において書かれた小説)」を

読みふけっていました。

 

 ある日、熱情のV楽章を聞いていて、突然、これは「切ない恋」だと直感しました。

第36小節から49小節の部分です。全篇嵐のようなこの曲の中で、何か、どうしようもない切なさを

感じました。その当時の自分の気持ちに、ぴったり波長が合ったのだと思います。

 

 自分は、お世辞にも、音楽に関して鋭い感受性を持っているとは言えないと思っていますが、

このときだけは違いました。音楽は好きですが、それはリズムやメロディーの話で、その底にある

作曲者の心情を具体的に感じたのは後にも先にもこの時だけです。まさに「降りてきた」という感じでした。

 それを感じたとき、いっぺんにこの曲が好きになりました。

 

 私が感じたことが、合っているかどうかは、別の話です。現に私の先生は、「自分はそう思わない。」

といわれます。でもこれは、ベートーヴェンに聞かない限り、誰にも分からないのです。よく現代国語で、

「この部分の作者の思いを述べよ」などという設問がありますが、その答えを見て、文章を書いた当の作家が、

「へーっ?自分はそんなことを考えていたのか?」という話があります。

 

 また、合っていようがいまいが、私がそう感じたのだから、それでいいのです。(やっぱりB型といわれそうですが)

 

 さて、社会にでてから、15年ほど、ピアノに対する思いは、封印されていましたが、

子供をピアノ教室へ入れて、送り迎えをするようになって、弾きたくなってきました。

 

 特にその教室は、熱情が卒業曲だったので、発表会で、6歳とか10歳とかが、軽々と熱情を弾くのを

目の当たりにして、どうしても弾いてみたい衝動に駆られました。(当然オクターブは届きませんから、

音の重厚さはありません。)

 

 さらに、「この曲はジャリンコが弾くような曲では絶対にない、様々な辛い思いを味わった大人の曲だ。

自分だったらこう弾くのに!」と、強く思うようになりました。

 

ただ、この時点では、弾きたいと思っても、弾けるなどとは思いもしなかったので、とりあえず、ヤマハの

ポピュラーピアノ教室に通い始めました。

 その頃の自分は、クラシックは基礎がなければ(ハノン、ツェルニー、ソナチネ等)絶対弾けないものと

思っていたので、あきらめた結果でした。(今は、絶対弾けないとは思いませんが、時間と意欲のある人には、

基礎からやられることをお勧めしています。)

 

ヤマハへは、8年通いました。簡単アレンジの弾きたい曲を何曲か、弾いただけでした。

その後、私の会の会員から紹介されたクラシックとポピュラーを教えてくれる先生に就きました。

ヤマハの先生たちに比べればはるかにすばらしい先生でした。(ヤマハは先生も生徒もダメにします。<---

個人的な偏見です。)

 

ポピュラー曲を弾きながら、楽典からはじめ、ハノンもやり始めました。

そして以前から、コソ練をしていたモーツァルトのトルコ行進曲を見てもらった時です。

 

「そこそこ弾けてはいるから、アマチュア相手なら拍手も来るでしょう。でも、ピアノを知っている人が

聞いたら、ボロボロです。今から直すことはかえって時間がかかるから、これは封印して、

ブルグミューラーから始めましょう。」といわれました。

 

 そして、半年位たった頃、熱情を弾きたいと言って、少し見てもらった時に、「冒涜とおもいませんか?」と

いわれたことで、私は先生を変える決心をしました。

 何故、冒涜なのか?偉大なベートーヴェンが、人類のために残した曲を弾いて何が悪いのか?

 

ここで、「意地でも、弾いてやる〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」という気持ちになりました。

もし、この時、冒涜と言われてなければ、私の「熱情」はなかったかも知れません。

 

 事実、乗り越えるのは不可能ではないかと思われるような壁に何度もぶつかった時、

この思いが助けてくれました。そういう意味では、この先生に感謝しています。

また、今の先生にめぐり合えたのもこの先生のおかげと思っています。

 

そして、今の先生に体験レッスンに行って、どうしても熱情を弾きたいと言ったら、拍子抜けする位簡単に、

「じゃ、やりましょう」と言ってくれました。ハノン、ツェルニーはやりたくありませんといったら、

「必要ありません。」と言ってくれました。「その代わり、曲の中で、そのフレーズを使ってハノンに

類することをすればいい。」とも言いました。

 

そしてレッスンが始まりました。

 

 今、ここまで登ってきて思うことは、「意地でも!」という思いだけでは絶対に弾けません。

やはり先生の指導の賜物です。

 椅子の高さ・座り方、姿勢、指の支え、親指が一番難しいということ、跳びの練習では、

肩から腕を動かすこと、指や手の重心をどこへ持っていけばいいのか?

 弾けないのは指のせいだとばかり考えていた自分を、弾けないのは体全体を使ってない

からという事を教えてくれました。

 

 和音の各指の力の配分、この部分はハノンと同じように付点、逆付点、三連符、スタッカートで練習とか

ベートーヴェンの音はもっと芯のある音が欲しい、また縦の音を揃える事等々・・・。

ここに書き切れるものではありません。 

 基礎を膨大な練習曲で作るのでなく、その時々に必要な、技術・練習法をタイムリーに教えてくれました。

そして、一度や二度では憶えられない私に、何度でも根気よく教えてくれました。

 

 半分くらい進んだ頃、弱音を吐いたら、「やめるのも一つの選択」などと意地悪なことを言って、

こちらのやる気を確かめたりしていました。

 

 後から聞くと、2ページ目の保持音が出来た頃から、弾けるだろうという感触を持っていたそうです。

ただ、最近、体験レッスンの時の本音を聞くと、「最初に出来るとは言ったけれど、半信半疑だった。」

と言ってました。

 

いつか、教えた側の苦労を書いてもらえないかなぁと考えています。

 

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